向田邦子『男どき女どき』- 脚本家・西沢七瀬さんのオススメ

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「20代の、これから社会に一歩踏み出すために、ひとり暮らしを始めることになった人たち」へ

西沢七瀬

例えば『横道世之介』、例えば『草子ブックガイド』、いま若い方におススメするなら話題の本が好いのでは?と悩みました。でもせっかくこうして書く機会を与えていただいたのだから、私の頭に真っ先に思い浮かんだものを素直にご紹介しようと考え直しました。

脚本家の大先輩、向田邦子さんの『男どき女どき』。おどきめどきと読みます。この本を開くとまず扉に、「時の間にも、男時・女時とてあるべし(「風姿花伝」)」との一行があります。もとは世阿弥の言葉で、こちらに勢いの波があると思えるときを男時、相手に勢いがあると思えるときを女時と呼ぶそうです。簡単に言うと、良い時もあれば悪い時もあるよ、信じていれば必ずいいことがあるよ、というような意味だそうです。

向田さんは脚本家・エッセイスト・小説家として、他を寄せ付けないほど勢いのあったその最中の、1981年(昭和56年)、飛行機事故で亡くなりました。でも未だに向田邦子さんの書かれたものは読まれ続け、その脚本は舞台や映画やテレビに繰返し使われています。今回ご紹介する『男どき女どき』には、最後の作品となった『嘘つき卵』ほか小説が4編、あとはエッセイが収録されています。そのエッセイの中に、読んでから数十年たったいまも尚、よく思い出す言葉があります。

「貯金をはたいてアパートを借り、家具をととのえて入ってみて、私はドキンとすることにぶつかりました」

……これは『独りを慎む』という題名の一節です。向田さんはそのドキンとした瞬間を容赦なく羅列します。読んでいる私こそズキン!です。ひとり暮らしをはじめて「自由を満喫しながら、これは大変だぞ、大変なことになるぞ、と思いました」と続きます。そして、「これは、お行儀だけのことではないな、と思いました。精神の問題だと思ったのです」……。

この作品に出会った頃、私もひとり暮らしを始め、仕事がうまく回りだし勢いづいていた頃でした。だからこそこの言葉は、忙しさを理由に乱暴になったり調子にのったりしがちな態度に好いブレーキとなったと思います。そして数十年経ったいま、年を食って図々しくもなりだらしなくもなりタガも外れかけていますが、まだこの言葉に体と心を支えてもらっています。

数十年たっても忘れられない言葉、ふと何かのときに思い出す映画やドラマの1シーン、向田作品はそんなものばかり。みなさんにも、楽しみながらそんな一生ものの言葉を見つけてもらえたら、と思っています。

西沢七瀬さんプロフィール

西沢七瀬さん

西沢七瀬(にしざわななせ)。脚本家。一般社団法人日本放送作家協会会員。

「スター千一夜」「ドキュメント日本人」「50円料理」「にっぽんの元気村」シリーズ、「素晴らしきドケチ家族」シリーズ、「面白予約シヨウ」「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」などのテレビ番組、「オールナイトニッポン」「夜はともだち」などのラジオ番組等、数多くの脚本を手がけてきた。

現在では地元である東京都杉並区の「杉並シナリオワークショップ」で講師としても活躍。ひとりひとりに合わせたていねいな指導で、初めての人でも必ずその人ならではのシナリオを仕上げることができることで好評を得るこの会では、その成果物としての脚本をプロの演劇人が演じる公演も開催している。

好きな食べ物はいちごやさくらんぼなど赤い果実全般。串揚げ、おせんべ、ハンバーグ、えび、たこ、かに……生クリームも好き。

オフィシャルサイト:西沢七瀬のページ bunbunbubuhime